昭和49年11月15日 朝の御理解
御理解 第73節
「変人になれ。変人にならぬと信心は出来ぬ。変人というは、直ぐいことぞ。」
よく信心のない人達が言う事に、神様仏様を拝まんでも、正直にこの世を渡って行けば、真っ直ぐ行きさえすれば、神様は拝まんでもと言った様な事を申します。確かにそういう人達は、一つの変人です。本当に信心はなくても、そういう正直なまたは真っ直ぐい生き方をする人がございます。だからそういう人達は、返って信心になりません。実際信心しよる者で、不正直な者があったり、実意のない人があったり。
だから私達は信心はせんけれども、世の中は真っ直ぐ渡って行くからという様な、そういう生き方を、変人と思います。だからそういう人が、信心を一度分からせて頂いて、変人ぶりというものが、愈々発揮されてくる。と言う事は信心によって、より真実な事を分からせて貰う。より本当な事を分からせて貰う。そこから真実一路。愈々変人ぶりを高度な変人ぶりを発揮して行くから、愈々お徳を受けるおかげを受ける。だから信心のない人達が、私達は正直で真っ直ぐ行きさえすれば良いという。
それは変人ですけれども、それが本当の事ではない。だから清貧に甘んじる人達が、沢山出来て来るのです。清い貧乏を一生続けて、自分は悪い事はせん。正直も実は頭に神宿ると言う様な、本当にそれが正直であり、本当の変人ぶりを発揮して行く事に精進するなら必ず神様は、その人の上に御守護を下さるはずなのです。けれども段々信心によって、次元が変わってくる。小学校の時に本当と思っておった事が、中学になったらより本当がある事が分った。高校に行ったらなおさら、大学に行ったらなおさら。
実際世間に出て見たら、なおさら真実の事が分かってくる時に、二十時代に本当と思っておる事が、三十になったら本当に若い時の考えは、甘いなぁという風になってくる。だから本当なことから本当な事を、求め続けて行くと言う事が、私は信心で言う直ぐい事だと思うのです。一所にじっとしておる変人ぶりでは、これは本当の変人でありまして、おかげの伴うていく変人と言う事ではないと思う。
昨日朝の奉仕の時に、熊本の富永先生の所から、電話がかかって来た。あちらに有名なご信者さんがあります。製餡業あんこを作られて卸して回られる方です。実に見るからに素晴らしい変人ぶりのご信者さんです。変わってますもんね。富永先生が死ぬか生きるかという、あの病気をなさった時に、熊本から日奈久からですから、それも自分の仕事を終えて参って来なさいます自動車で。ですからここへ着く時には、何時でも御祈念が済んだ、電気を消やそうかという時分に参ってくる。
それでも仕事を一生懸命して、そして親先生の全快を祈り願って、お参りをして来なさる。この人の願い方というか、知ってる方もありましょうけれども、本当に幾ら御結界で、ぼやっとしていても、ぼやっとされん様なお届けをされます。そして信心の進め方が、また素晴らしい。例えて申しますとです一番初めに参ってきた時に、御神酒を一升お金を一万円という風にお供えされました。その次に参ってくる時には必ず、御神酒は二升です。その次にはお金が必ず二万円です。という様にですね一万円ずつでも必ず増やして行かれる、特別願いをされる時には。
こら私は神様もこういう生き方には、おかげやらにゃ神様の方が気の毒かと思うておられはせんじゃろうかと思うごたる。ちょうど御神酒がそれも超特級酒ですもんね、大きな箱に入っておる。御神酒を十二本お供えなさった時が限界でしたよ。しかも日奈久からですからね、お参りしてくるのが。それこそ真心とは、こういう生き方だろうかと思う様な、風采に出てますね。ご大祭の時には必ず友達のお伴をして参って見えます方です。その方がこの人は神様から、いろいろお知らせを頂くんです。
実はその人が今度色んな物価が、何でも上がって行くのであんこ屋さんの組合で、熊本に四軒か五軒かあるそうです。組合で値上げをすると言う事が決まった訳です。所が自分は信心をさせて頂いておるから、まぁ今のままでも儲からん訳じゃないから、今のままで押し通すと言われたそうです。自分のこうする事が本当だという事を押し通す。それが直ぐいことなんです。だから彼がそう言うとりますが、それで良いでしょうかというお伺いでした。そしたら直ぐ私が電話を受け受け頂いた事は。
加という字です加藤清正の加。加山雄三の加です。力を書いて口を書く。これは加えるという字です。次に人という字を頂いた。そして共という字を頂いた。共同の共ですね。加えると言う事は、私は値上げをして行く事だと言う事。値上げをする事に自分が引っ掛かるならばです。やっぱり引っ掛かってはいけません。そして人と共に足並みを揃えて行けと言う事なんです人と共に。だから組合で決まったなら、決まった様に値上げをして行かれたが良いでしょうから。
そう言うてくださいと言うて、伝えさせて頂きよりましたら、人という字と共という字を今度は、人という字の横に共という字を頂いた。どう言う事になりますか、ちょいと書いてみてごらんなさい。人遍を書いて共という字。共同の共です供えるという字になるでしょう。私はここを頂いた時にです。本当により素晴らしい変人ぶりというのは、より本当な事が分かると言う事なんですよ。そしてそれを実行する、断行する事なんですよ。人と共に足並みを揃えて行け。
組合で値上げと言う事が決まったら、値上げをして行け。それでも自分は安く売らせて頂くのが信心だと思い込んでおりますから、自分の所ではまだ値上げせにゃ損すると言う事もないから値上げもせん。成程素晴らしい変人ぶりです。所がより本当の事を、また実行してそれに、生き方を変えて行くと言う事は、より本当な事を身に付けて行く変人ぶりです。人と共に足並みを揃える。そこで最後に頂きます、人と共という字を頂くと、供えると言うことですから。
例えば十円の値上げをしたならば、十円は余分にお客さんから頂くのであるから、その十円をお供えにして行けという意味なんです。変人にならなきゃ出来ませんよ。変人と言う事は決して一所に留まっておる事ではありません。より本当の事が分ったら、より本当な事へ直ぐく真っ直ぐく進んで行くと言う事なんです。それが信心が進んで行く事なんです。此の方の行は家業の行と言われます。火や水の行じゃない家業の行と。家業の行とは、どう言う事か。銘々が頂いておる、天職とそれを頂いてです。
その天職を実意に丁寧に全うして行くと言う事なんです。しかも神恩報謝の心。神様の御恩が分れば分かるほど、その報謝の心をもって、天地の親神様の頂いておる、そのおかげをです有り難いと思えば思うほど自分の仕事、家業の行に報謝のつもりで、神様へ報い奉る心で仕事をさせて頂くという事がです。家業の行でありそれが直ぐいことなのです。仕事の上にも、その様に現れて行かなきゃいけんです。
にも拘らずこんな仕事を、何時までせにゃんとじゃろうかとか、その仕事の内容に実意を欠いておったり、その仕事をいい加減にしたりしたのでは、直ぐいと言う事も言えませんし、神恩報謝の心を自分の頂いておる仕事に現わして行くと言う事。そういう人を私は直ぐい人だと。教祖様がまだお百姓をなさっておられる頃に、今日は休日休みだと言う様な時でも、矢張り神恩報謝の心。お天道様はお休みにならない。それを思うたらその報謝の心を、村道づくりと言った様な事に精を出されたと言う事です。
大体休みの日にあげな事してからと、人はその変人ぶりに驚いたでしょう。直ぐい事。それが本当だと思うたら、それを実行する事が本当です。所がその本当の事、直ぐい事がです。もっとより本当な事を分らせて頂いたら、より本当な事を実行して行く事が信心です。昨日は久富正義さんのところの、お母さんの一年祭でした。本当にご兄弟たちも、みんな集まって、それこそ真心の限りを尽くしてのお祭りでした。仏教でお葬式もございましたし、仏教でご法事も務められた後の事です。
けれども是は正義さんにしてはです。信心が分れば分かるほどです、本当な事にならなければという願いの元に、昨日はお祭りがございました。お祭りを頂き終わって皆さんに聞いて頂いた事ですけれども。それこそ照り輝く様な感じのね、御霊様の表情が。だからそのまま送り名を頂きました。久富美津世と言われております。みは美しいつは天津の津ですね。よは世界の世。照るという字輝くという字、それに天照大神の照るですね。久富美津輝照照老媼霊神と。
ところがどんなに考えても御祈念中にですね、余りにも素晴らし過ぎるという感じなんですよね、私が頂いてから。またお婆ちゃんもご承知の様に、非常に遠慮深い慎み深いお婆ちゃんでしたがね。そう思いよったら照るという字の、点々を消して行く所を頂きました。点々は心と言う事ですよね、四つあるのはあれは心という意味なんです。あんまり素晴らしい。だからご遠慮申し上げる。そして昭という字と言う事になりましたから、輝昭老媼霊神という遺号です。
送り名を送らせて頂いて、これからはそう唱えて拝ませて貰う様にと申しました事です。御霊様がおかげを受けておられると言う事は、私は神様へ若先生がお祝詞を奏上します時に、間に合いませんでしたから、私が御祈念の時に申し上げたんですけれども。合楽示現活動が、御霊ながらに出来ておられるです。亡くなられたその日に、神様のお三宝の上に、姿を現わされるという位に、これは上野先生が頂きましたんですよね。本当に信心の徳とは、有り難い事だと思います。
その後に於いても色々お夢で、色んなお指図やらお知らせを頂いております。いわゆる久富組または久富建設の、一番元を取られた方ですね。だから申しました。本当にこれが、三年祭五年十年という頃にはです。久富組久富建設に、御恩顧を受けておる者が、みんな集まって、式年祭が仕えられるようにならにゃいけないな。正義さんも本当にそうならにゃいけない。新館のホールでお膳部がずらーっと並んでね、久富組建設の人達が、親戚は勿論の事、その御恩顧にあずかっておる人達が。
お婆ちゃんやらお爺ちゃんの、いわゆる元を取って下さった方達の式年祭だという時には、そのくらいな威勢のいい威勢のあるお祭りが出来る様な願いを建てなきゃいけないね。本当に私もそう思いました。私も実はこの式年の御霊様のお祭りを、拝ませて頂きその事をしきりに考えたと、正義さんが言っておりました。勿論仏教でしてありますから、他の親戚には、全然御通知もなかった。ほんな身内の兄弟孫達まででした。そして私も終わって、お話を聞いて頂いた事なんですけれども。
例えば信心をしておる積りでおったり、ご法事をしておるかのつもりでおったのではいけません。例えば電車に電流が通うていない電車。だから見た目には電車ですから、その中に乗っておって電車に乗っておるつもりです。所が電車は一つも動いてはいない。いわゆる、生きた宗教と、死んだ宗教の違いがそうです。殿堂、伽藍堂のような、立派な会堂を持っておる宗教であってもです。中に動いたものがない。生きたものがないならば、そして、そういう信心をしておるならばです。
それは動いてない電車に乗ってるのであって、ただ電車に乗っておるつもりなのだ。例えば仏教なら仏教で、それこそ盛大なご法事をさせて頂いてもです。御霊様にどれだけ喜んで貰え、どれだけの動きがあるか。ただそのつもりでおる。そういう人が世の中でどの位沢山あるか分からんです。これは仏教だけの事ではありません。金光教の中にあってもです堂々巡りの教会、動きも何もない教会。それはその教会で信心はしておるけれども、おかげらしいおかげもないけれども、信心をしておるというのはです。
それは丁度動かない電車に乗って、それでも電車に乗っておるつもりでおるのです。動いていないです。そういう意味においてです。合楽の場合なんかは、それこそ電車に乗る。一心と定めて、合楽の電車に乗らせて頂いて、どこまでという事になりゃそこまで、その電車が動いて連れて行ってくれる。だから途中で飛び降りるような事をすると、動きよるのだから怪我する。それは生きた神様生きた信仰のしるしです。動きもしていない箱に、言うなら電車に乗り込んで、信心をしておるつもり。
こんなナンセンスな事はないという御理解でした。例えば親の法事をさせて頂くでも、式年祭をさせて頂くでも、年期が来たから法事をする。なかには段々信心が分ってくる。分かってくるから、改式でもしなければおられない。この世で金光様と言うてあの世では何々様では良かろう筈もないし、信心が本当に分かってきたら、改式をしなければおられない。そこで改式をするとおかげを頂くから改式をするという人がある。
御霊のお祭りをすると、御霊が喜ぶだけではなくて、自分達がおかげを頂くから御霊のお祭りをするという人がある。言うなら年期が来たから法事をする。これは一番詰まらん、人見せ的なお祭りでは詰まらん訳です。次にはそうすると自分がおかげを頂くから、改式でもさせて貰うたり、式年祭でもすると、それだけのおかげを頂くから、お祭りはせにゃならんと言うのは、条件付きですからちっと可笑しいですね。
私は昨日正義三所の、式年祭を仕えて申しました。正義さんと久富組の久富美津香さんです、奥さんですたい。あっちはご主人が信心がありませんから、結局信心のある者が思い立たなきゃ出来ない。分かっておれば分かってくるほど、そうしなければおられない。そこには、条件もない。私は真と言う事はそれが真だと、昨日申しました。お供えをする、お供えはすりゃする方、おかげは頂くけんと言うのではなくて、そうしなければおられない、御用もそうしなければおられない。
信心が分れば分かるほど、そうしなければおられない、と言う所からなされる所に、私は真があると思います。今日は私は変人にて変人とは直ぐい事。変人にならなければ信心は出来んと仰る事は、変人にならなければ信心は進まないと言う事。これが本当だと思うておる事を、より本当な事が分ったらです。それにそのまま真っ直ぐに進んで行かれるという事。それが今日は変人だという風に聞いて頂いた訳ですね。変人ぶりを愈々より素晴らしい変人にならせて頂いて、信心を進めて行かなければなりません。
十年前に思うておるこれが本当だという事がです。十年後においてもやはりその事を本当だと思い込んでおるならば、あなたの信心は一つも進んでいないと言う事になるですね。本当だと思っておる事は嘘じゃないのです。信心の全然ない人がです。私達は悪い事はせんから。真っ直ぐ正直で行くからそういう神様は拝まんでんと。それもやっぱり本当です。またそういう人だって、生き方は確かに正直な生き方をしよるです。けれどもそれではおかげにならんのです。だから信心に寄らせて貰って。
御教えを受けるとです。はぁこりゃこれでよかと思いよったら、こげなこつじゃほんなこつじゃない事が分って、より直ぐい事より真っ直ぐい事が分ります。昨日熊本のご信者さんの、お取次をさせて頂いた様にです。商売をさせて頂いてですそげん値上げをせんでも、十分儲かるから値上げはせんと。それが本当な事なんです。けれども御神意を頂いてみたら、もっと本当な事があった訳です。矢張りみんなと足並みを揃えて値上げをせろ。その値上げをさせて頂いた分だけは。
その代わりお供えをせよと言う様な風に、ここは受けなければならんだろうと言うて、昨日お取次させて頂いた事ですけれども。それがもし実行が本当に出来んならばです。その人はより素晴らしい変人ぶりを発揮した事になるのです。変人と言う事は決して一所に定着しておるものではないと言う事です。変人と言う事はです。どう言う事かと言うと直ぐいと言う事が変人と言う事なのです。
人が右ち言や左にする。あの人は山川さんじゃからと言う様なのは、あれは変人ではなくて、ジュウゲモンち言う事風雅人それじゃいかん。変人にならにゃいけません。変人とは変わる人と書いてある。本当な事が分ったら本当から本当へ変わって行けれる、その直ぐい生き方を身に付けて行こうと精進するそういう姿が変人。いわゆる信心を愈々進めて行っておる人の姿であり、教祖が言われる変人ぶりを発揮して行く事になりますから。より本当なおかげが、おかげの方も進んで行く事は勿論です。
どうぞ。